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ロマンス
ロマンス

著者:井上 ひさし
■ISBNコード: 978-4-08-771221-6
■判型/総ページ数: 四六判ハード/248ページ
■発売年月日: 2008年4月4日
一 チェーホフの噂

微笑しているチェーホフの肖像写真のところへ、オリガとマリヤを演じる
女優が登場して序詞を歌い、リフレンで男優四人が登場、六人で歌う。


(マリヤ役の女優)
あなたが去って
時がたった
けれども四つの芝居は
いまも大流行

(オリガ役の女優)
あなたが去って
噂がのこった
いいのもあれば
いやなのもある

(六人で、リフレン)
そう、胸を病み血を吐いたチェーホフ
主義もない夢もないチェーホフ
お高くとまったニヒルなやつさ
おセンチな弱虫
いろんな噂
そう、妹に頼り切るチェーホフ
そう、女優さんにもてもてのチェーホフ
けれど一つ たしかなことは
そう、ボードビルが好きだったこと

そう、ボードビルを書きつづけた先生
なにもかも笑いのめす先生
かもめもワーニャも三人姉妹も
桜の園まで
すべてがボードビル
そう、いちにちに五回も下痢 先生
そう、それなのに笑っている 先生
だから一つ たしかなことは
そう、ボードビルが好きだったこと

粘って繰り返す。


だから一つ たしかなことは
そう、ボードビルが好きだったこと



二 冬の夜

吹き荒れる吹雪に交じって港からの霧笛。その上に二枚の字幕。あるいは、俳優が手分けして読み上げる。


@「アントン・チェーホフは、南ロシアの港町の、小さな食料雑貨店の三男坊である。町外れにあるせいか、店はまったくはやらない。そこで父は、夜の十一時まで酒場を開くことにした。」
A「アントンが中学七年生のある吹雪の夜、お客の代わりに入ってきたのは、ナイフをかざした押し込み強盗だった。」

黒マント、黒の鍔広帽の男(元神学生)にナイフを突きつけられて
バンザイをしている前掛け姿の父が、ランプの灯りの中に浮かび上がる。


 金か命か、どっちか出せ。
 突然いわれても……あんまり突然で、どっちを出していいかわかりません。
 生まれてから死ぬまで人生は「突然」で成り立っているんだ。おとなしく金を出せ。
 ……おや、震えていますね。
 吹雪に吹かれてからだの芯まで凍っている。
 それならウオッカですよ!

父はウオッカの壜や小グラスや銭函が置いてある卓まで後退りしながら、


 うちのはおいしいですよ。最初の一杯でからだ中がポカポカになり、次の一杯で突然、お金のことなんかどうでもよくなります。
 ……壜を置け!
 歯向かったりはいたしません。神様からいただいた命を粗末にしてはバチがあたりますからな。(ぶら下がっていたソーセージを一本、もぎ取って)ナイフで削いで召し上がれ。えーと(見回して)ナイフはどこだっけな。
 自前のを使うから探さなくていい。うろちょろせずにそこへ坐っていろ。銭函をこっちへ!
、ナイフで脅して父を椅子に坐らせ、銭函を引き寄せて、油断なく見張りながら一気にコップを干す。……吹雪の中から教会の鐘の音。
 ……(十字を切って)あの教会ですが、じつはわたしが聖歌隊の隊長を務めているんですよ。きびしく鍛えて、南ロシアでいちばんの聖歌隊に育てあげました。わたしはそれくらい教会の仕事に熱心なんです。
 それがどうした。
 その信心深い信者が、どうして夜になると、不信心な酔っ払いの相手をしているか、それが判っていただけたらなあ。
 個人的な事情はいい。聞けばナイフの切れ昧がにぶる。
父 生活が苦しいんです!
 このせつは、だれだって苦しいさ。
父 とりわけこのわたしの生活は苦しい! お茶に砂糖にソーセージ、タバコにローソクに釘に下剤、どれもこれもいい品物をそろえているのに、さっぱり客がこない。新開地の外れだというので、みんな怠けているんですよ。 (…この続きは本書にてどうぞ)

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