母親の腹は柔らかかった。ゴムの塊のような感触を想像していたが粘土に近かった。肉の弛んだ粘土のような腹を幾つかの穴が開いた包丁が突き刺した。赤ワインに似た色の液体がシャツに滲んでいった。白いシャツにどす黒い赤が鮮明に染まっていった。
目の裏側にちらつくその映像の赤と、前方を走る車のブレーキランプの赤が重なる。信号で足止めされた車を追越す時、運転席の人間を横目で見た。眼鏡を掛けた黄色い髪の男は、眼鏡越しに正面を見据え、指先でハンドルを叩きリズムを刻んでいた。僕は信号を無視し、自転車のペダルを回転させ横断歩道を通り抜けた。クラクションの音が聞こえたような気もしたし、聞こえなかった気もした。さっきから音という物が上手く耳に入ってこない。音がもこもこした丸い輪郭になって聞こえる。何かで耳を塞がれているような感じがして、ハンドルから片手を離して両耳を交互に触ってみたが、耳を塞ぐものは何も無かった。今、僕に入る情報は目に映る映像と、肌に触れるひんやりした風だけだ。かなり高速でペダルを漕いでいるが体の疲労は感じない。呼吸も苦しくないし、汗もまったく掻いていない。自転車の小さなライトが照らす黄色い灯りの先へ、ハンドルを握り車輪を回転させる。
幅の狭い歩道の先に大小の人間の形が見えた。それが幼稚園児くらいの小さな子供と、小太りの母親らしき女が手を繋いで歩いてくる姿だと距離が近づくにつれてわかった。二人との距離が狭まっていく。十メートル、五メートル、一メートル。ブレーキを握り、少しずつ速度を落とす。男の子の目と僕の目が互いを見合った。母親は子供を歩道の端に寄せた。小さな男の子は母親の手を握りながら、僕とすれ違い交差する瞬間まで首を捻り僕の顔を見ていた。じっと見つめてくる子供の眼が皮膚の裏側の骨や血管、内臓の形、色まで見透かしてくるような気になる。
景色は今まで見たことの無い街のものに変わっている。目の前の交差点の先に薄緑色の建物が見える。そこから米粒より僅かに大きく見える人間達が出たり入ったりしている。建物の両脇には鉄橋が繋がっている。鉄橋の果ては見えない。その上を走る窓から白っぽい光を漏らした電車が、ゆっくり建物に入っていく。ペダルを漕ぐ速度を速め、交差点の角に差し掛かった時、視界の左隅に銀色の塊と人間の上半身の形が一瞬飛び込んだ。ハンドルを切り、避けようとしたが間にあわなかった。甲高いブレーキ音と、フレームのぶつかり合う衝撃と鈍い音が同時にした後、僕と自転車は引き離され僕はアスファルトの上に落ちた。冷たく、ざらついたアスファルトの感触が手の平に伝わる。衝突した相手は地面に尻をついて膝の辺りに手をあて顔を歪ませている。額の広い初老の男だった。男の側で倒れている銀色の自転車の車輪が、カラカラ鳴いて空を切り回転している。僕は地面に片手を突きバランスを取って体を起こした。男が駅前に響き渡る声で怒鳴り散らす。駅前の人間達は視線を僕と額の禿げあがった初老の男に向ける。関心はあるが関係を拒む目。バスターミナルから歩いてくる人間が見下ろし通り過ぎる。僕は急いで去ろうと地面の上に横たわった自転車を起こし、サドルにまたがった。ハンドルを握りペダルを漕ごうとしたが、車輪が回転しない。スポークとフレームが曲がっていた。壊れた自転車を置き去りにして、僕は交差点を渡った先の駅へ走った。後ろから男の僕を罵る声が聞こえる。キャップのつばを深く下げ走る。固いアスファルトを蹴り走る。駅の入口の長い階段の横に添うように上りと下りのエスカレーターがある。何人かの人間がその上を移動している。僕は階段を一段ずつ飛ばして駆け上がった。ジーンズのポケットから財布を取り、五百円玉を券売機に入れ二百九十円の切符を買った。改札を通りぬけ、キャップを目深に被り直し俯き歩く。すれ違う人間の靴が目に入る。僕は顔を上げ辺りを見渡した。左右にある階段の入口上部に1と2と表示された看板がある。1が都心から離れる電車で、2が都心へ向かう電車だった。僕は2番線ホームの階段を一段ずつ、ゆっくり上がった。ホームに立つ人数は多くない。壁に打ち付けられたプレートに書かれている駅名は、家から三駅離れた駅名だった。僕は青いベンチの一番左端に腰掛けた。五つ連なった椅子の右端には若い女が座っていて、手鏡を持ちマスカラを付けていた。僕の膝は小刻みに震えている。鼻から息を吸い込み、口から吐きだして膝を両手で押さえ付けた。
「今どこ?」
女が声を発した時、心臓の脈打つ鼓動音が体の内側で大きく鳴り、胸が少し痛んだ。首を少し女の方に曲げ、横目で女を見る。手鏡とマスカラはヴィトンのバッグに収められていて、手には携帯を持ち、それを耳に当てていた。キャップを深く被っているせいで、女の鼻辺りから上はつばで隠れて見えない。なにかジャラジャラしたものと一緒に、小さなクマのぬいぐるみのストラップが携帯に括り付けられ、ゆらゆら揺れている。「うん、うん、今から電車乗る、うん、え、まじ?」車両到着を告げるアナウンスがホームに響く。線路上の遠く先からライトの目を光らせて、電車がホームに近づいてくる。白線へ寄る人達。一つのドアに多くて三人。誰も立っていない場所もある。僕と女の座っているベンチの前には、スーツの上着を片手に掛けた中年の男が一人立っている。ワイシャツの下にランニングシャツの筋が透けていて、腋から出る汗がシャツを濡らしている。「マキは来るんでしょ? うん、そうそう、いいよ気にしなくて、うん」電車の音がホームに近づくにつれて大きくなると、女の声量もそれに比例して大きくなる。女はベンチから立ち、スーツの男の横に移動した。電車のドアが開く。僕は二人が乗り込んだドアの隣のドアから車内に入った。電車の中は錆びた鉄と、フライドチキンが混ざったような匂いがした。車内の人数は少ない。座席は空いているが、僕はドアと座席の角のスペースに身を置いた。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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