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蛇衆
ジャシュウ

著者:矢野 隆
■ISBNコード: 978-4-08-771277-3
■判型/総ページ数: 四六判ソフト/328ページ
■発売年月日: 2009年1月5日
     

 新たな火柱が上がった。
 闇を照らす炎が全身を覆いつくすような錯覚を覚え、末崎弥五郎(すえざきやごろう)は大きく息った。
 業火に包まれる社に群がる数百の百姓達を、暗色の鎧をまとった侍達が押し止めていた。
 炎が巻き起こす轟音と、群れつどう者どもの悲鳴が綯い交ぜになり、心を揺さぶり続ける。静謐な夜から隔離された地獄に、弥五郎は立っていた。
 大きな梁が音をたてて崩れる。
「蛟(みずち)様」
 ひときわ大きな女の声が聞こえた。
 炎に包まれた社へ必死に駆け寄ろうとするのを、甲冑姿の侍達が威圧するように取り囲む。
「これほどの百姓。よくも集まったものよ」
 弥五郎の隣、床几に座る男が言った。
 鷲尾重意(わしおしげおき)。先年、父を亡くし、鷲尾家の当主となった若き主君は、冷淡な眼差しで、燃える社を見つめている。
 重意が、ゆっくりと視線を左右に向けた。
 社の前方に、おびただしい数の槍が突き立てられ、その穂先に刺さった老若男女さまざまな首が、呪詛を込めてこちらをにらんでいる。
「ここに巣くうておった巫女の、時の行く末を見通す占いとやら、一度見てみたかったの」
「此奴等の申すには」
 弥五郎は群がる百姓達を見ながら言った。
「巫女は占いなどせぬと」
「占わずして、どうやって行く末を見定めるのじゃ。芸としての体裁を整えておらねば、それは芸とは呼べぬ」
 妄言じゃ。吐き捨てるような重意の声が、喧噪のなかにかき消えた。
「御幣も振らねば、祝詞も上げず、ただ託宣だけを述べ、そのことごとくが的中いたすとのこと」
「たわけたことを」
「それでも、あやつらが信じておったのは確か」
 悲嘆にくれ狂乱する群衆の姿が、社の主の力を無言のうちに証明しているように思えた。
「弥五郎様」
 背後から聞こえた。
 小さく振り向くと、男が立っている。
「首尾は?」
 重意に悟られぬように、男は小さくうなずきこちらを見る。
「そうか」
 社へ目を戻すと、背後の気配が消えた。
 その時、社から五尺ほどの炎の塊が飛び出した。
「重意、鷲尾重意はいずこ」
 炎が声を上げた。
「取り抑えろ」
 弥五郎は突然の出来事に戸惑う兵に叫んだ。
 その声に、我にかえった侍達が炎へ駆け寄る。
 地面を転がり炎を消しながら、茶褐色の人影が重意へとせまる。
 兵達が取り抑えた。
「猿か?」
 両腕をつかまれながら引きずられる男を見て、重意がつぶやいた。
 炎に焼けただれた身体に衣服はなく、真っ黒に煤をまとった姿は、たしかに猿を思わせる。
「御主が鷲尾重意か」
 闇のなかに白く光る瞳で重意をにらみながら、男が叫んだ。
「猿が喋ったわ」
 小馬鹿にした笑みを浮かべて、重意の目がこちらを見た。
「儂等がいったい何をした」
 怨念に満ちた声で男が叫んだ。
「此奴等をそそのかし、一揆をたくらんでおったのであろう」
 言いながら後方の群衆を指し示す。
「一揆? 一揆など。蛟様はただ、哀れな民に救いの手を差し伸べておられただけ」
 男が必死に首をふる。
「救いの手だと? ただの汚れ巫女風情になにができる。汝等をどうやって救うというのだ?」
 重意の口が無気味にゆがんだ。
「我等に刃を向けようとしておったのであろう」
 弥五郎は二人に割って入ると男へせまった。
「ちがう。儂等はそのようなことを望んではおらなんだ」
 なおも燃え続ける社を男は見た。
「蛟様は不思議なお力を持っておられた。儂等には計り知れぬ力を」
「それで汝等のような者どもがつどって、よからぬ謀をめぐらしておったということか?」
「儂等は蛟様のお力に付き従う者」
 重意が口を開いた。
「蛟の力とは何じゃ?」
「いまだ起こっておらぬことを知るお力。蛟様にしか見えぬ先のことを、お言葉にのせて儂等にお伝えくださる」
 思わず弥五郎が叫んだ。
「痴言を申すな」
「先年の大水を覚えておるな」
 男の血走った目が弥五郎をにらむ。
「それがどうした?」
「あの時、もっとも人死にの少なかった村は?」
 重意は黙ったまま二人の会話を聞いている。
「では、この夏の日照りじゃ。決まっただけの年貢を差し出せた村はどこだ?」
 悲鳴を上げ続ける百姓達を見た。
「そうだ」
 男の声が森を震わす。
「そこで泣き叫んでおる者達の村だ」
 顎で百姓達を指し示した。
「託宣にしたがい、大きな災いから逃れることができた」
「まさか」
 弥五郎は首をふる。
「お力を目の当りにしておらぬ者には解らぬ」
 鴉羽色に染まった顔が笑みにゆがみ、牙を剥く獣のごとく咬み付かんと重意にせまった。
 重意みずから、男の顔を張る。
「殺せ」
 命じる重意の声が冷たい。しかし、さきほどまでの余裕が感じられない。
「蛟様の最期の託宣を伝えるまでは死ねぬ」
 制するように男が叫んだ。首を刎ねようと刀を構えていた家臣を、重意が止めた。
 弥五郎は背中に冷たいものを感じ、己の汗だと気付くまでに、わずかな時間を要した。
 言い知れぬ不安が襲う。
「そのような者の世迷言に、耳を貸してはなりませぬ」
「申せ」
 弥五郎の言葉を無視し、男に告げる重意の顔が青ざめている。
「赤子がおろう?」
 唐突な言葉に、重意は首をかしげる。
「重意、御主の赤子じゃ」
 たしかに重意には生まれたばかりの子がいる。将来、鷲尾家の主となるはずのはじめての男児だった。
「そやつは蛇じゃ。人を喰らう蛇じゃ。どこまでも冷たく、どこまでも執念ぶかい。漆黒の蛇」
「愚弄するか」
 叫ぶと同時に弥五郎は刀を抜く。
「待て」
 重意が止める。
「続けろ」
「その赤子は御主を呑み喰らう蛇となる」
 男が高らかに笑った。
 弥五郎が見ると、重意は力なくうなずく。刀を振り上げ振り下ろした。
 紅い軌跡を描きながら、首が宙を舞う。
 群衆の叫びは頂点に達した。
「これ以上は危のうござります」
 重意を見る。青ざめ、首のない骸を見つめる目はうつろである。 (…この続きは本書にてどうぞ)

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