子供のころ、誠はよく散歩に出かけた。
イヌを探しに。
野良イヌのくせに美しかった。幼い誠には、子ウシほどもあるように感じられていた。赤っぽい褐色の地に、ホルスタインのような大きめの黒いぶちが、うっすらとある。短い毛の一本一本は、見たところ硬そうだが、それでいてしなやかであるようにも思われた。あの背中に跨ったならば、さぞかしふわふわと心地好いであろう。そんな夢想を促されもした。
たった一度だけ、目が合ったことがあった。そのイヌは、後ろから近付いた誠の気配に気付くと、ゆっくりと体の向きを変えながら首を捩り、そのままじっと誠を見つめてきた。その目は、他のどのイヌのものとも違っていた。小学校への行き帰り、一戸建ての庭先に繋がれていたり、飼い主と共に散歩していたりするイヌを何度も目にしたことはあったが、それらのものとは、明らかに別物、違う生物のものだった。誠はそのとき、自分の目をじっと覗き込んでくる存在と、生まれて初めて対峙した気がした。誠にとって、そのイヌはそういうものだった。ところが、いつのころからか、そのイヌを全く見掛けないようになった。
誠の母親の眉間には、常に二本の深いしわがあった。
ある日、朝食の折、誠は母親に尋ねた。あのイヌはどこへ行ったのだろうか、と。後片付けに取りかかっていた誠の母親は、自分は見たことないが仮にそんなものがいたのだというのならば、そのような前置きと共に、手足の動きを止めることなく、いつも通りの眉間のままで、こういう返事をした。それは多分、死んだのだ、と。死の近付いたことを悟ったイヌは、死に場所を求めて、どこかへと旅立ったのだ。ほら、[ゾウの墓場]などと言うではないか、と。
誠はそれを聞き、一旦はなるほどと納得したものの、すぐに違和感を抱いている自分に気付いた。誠の中では、あのイヌと"死"というものが、妙な親和性を持っていて、あのイヌが死んだ、ということについては驚くほど抵抗感がなかった。しかし、あのイヌが自分の身辺から離れてどこかへ行った、というその点については、どうしても腑に落ちなかった。もちろん、理論立った根拠があったわけではない。ただ、こう確信していた。イヌの居場所はここなのだ、と。
最終的には、母親の言ったことと自分の直観との間をとったイメージを思い描くことにより、あのイヌに関しての、とりあえずの決着をつけた。ある日、その辺りを歩いていると、建物や植え込みの陰など、そんなひょんなところで、動かなくなった、死んだあのイヌに、不意に出会う。そんなイメージを。
だから、誠が散歩しつつ探していたのは、正確には、イヌではなく、イヌの死体だった。
誠は、そこで生まれ、そこで育った。
その一帯は、新聞紙を一枚取り、一度くしゃくしゃと丸めたあとざっと広げ直したような、そんな地形をしていて、雑木林や竹藪となっている小さく複雑な凹凸の寄り合いは、高いところでも、せいぜい標高六十メートルほどだった。まず、そういうところの谷となっている部分に鉄道や道路が敷かれ、次に、それらを繋ぐ形で起伏を上り下りしつつまた道路が通され、最後に、斜面の一部を削って出来たひな壇に、住宅が建てられた。誠の団地は、そんな一帯の最深奥部にあった。
国道一号線から北へ入る。車で走る分にはさほどでもないが、自転車を漕いでみると少しきつく感じる、そんな感じの坂を二度越えつつ、痴情のもつれから首を絞められて殺された女の死体が出たことがある林の中を、二キロほど進むと、その団地へと辿り着く。
全部で五十八棟あった。それらはいずれも、元々そういう色なのか、風雨に晒されたせいなのか、くすんだ灰色をしていた。五階建てで、出入り口が四つあり、そこから階段を上って行くと、各階に辿りつく度に、両脇に一つずつ玄関ドアが現われる、そういう構造をしていた。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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