一
煩悶する。
子供の頃から中川はそうだった。己が大いに好意を寄せている事物に対して、その感情とはまったく相反する行動をとって
しまっては、要りようのない後悔をしてきた。何につけても中川はずっとそうだった。まるで自作自演でしかない、そんな悪循環に
延々とはまってきた。いくら東京から遠く離れた辺境育ちであるとはいえ、こんなふうに不器用でいる必要はないはずだ。そんな
間技けな性分だった。
もっと煩悶する。誰に仕込まれたわけでもないのに、何事においても中川はずっとそうだった。その不器用さゆえに、これまでも
多くの場面において、至極くだらない失敗を繰り返してきた。まだ小学生だった頃、中川は課外実習で小さな山に登ったことが
ある。その山中において、これまで見たこともないほど美しい一匹の蝶を掴まえた中川は、傍に居合わせた引率教師に、
ついつい嬉しくなってそれを披露した。すると、その教師は急に血相を変え、骨ばかりの全身をがくがくと震わせながら、山中に
いる生徒らをひとり残らず中川の前に整列させた。そして、その蝶が新種であること、それを発見したことがどれほどの偉業で
あるかということを、懇々と説き始めた。中川自身、こうやって己の行いについて讃えられるのは嬉しくないわけではなかった。
大変誇らしく思うところもあった。けれど、緑陰漲る静かな山中という奇妙なシチュエーションに据え置かれ、こちらばかりを
眺めているいくつもの視線に曝されてまで、仰々しくも底なしに褒められている現状がどうにも恥ずかしくなった。次の刹那に
中川はついに我慢しきれず、大人しく手中にいたその美しい蝶の翅を残らず毟り取って、そのまま自身の足元に叩きつけ、
力ー杯ぐちやぐちやに踏み潰した。それを捕らえた瞬間、嬉しさのあまり「イヴ」とかいう気取った名前をつけていたのにも
かかわらずである。
他にもある。大好きだった祖父が逝ってしまったのは、しみったれた風情を醸すこの町の子供らにおいても、白い革製の
ローラースケートを所有することが、随分と流行した頃だったろうか。もっとも祖父があちらへ迎え入れられるのは年相応の
出来事だった。とはいえ、血が繋がっているというだけで、特別なところなどひとつもない中川を、特別猫かわいがりしてくれる
祖父がいなくなってしまったという事実は、あまりに耐え難いものだった。祖父のお葬式の最中、どうにも平常心ではいられなく
なった中川は、階段を下りるエクソシストの少女のように四肢を逆に強張らせ、ぴんと身体を反り返した祖父の臨終風景を
まねしながら、棺桶の周りを行ったり来たり無茶苦茶して、こっぴどく叱られた。
そんな中川も、大好きな誰かと心を通わせたことがないわけではない。どの恋人たちも行うように、ふたりっきりで初めての朝を
迎えるためだけに、その男と連れ立って近所にある沼ヘキャンプに出かけたことがあった。美しい修飾語に満ち満ちた美文調の
おとぎ話の中にある、素敵なカップル気分に浸りきった中川は、すっかり我を忘れてその男に夢中になっていた。そんな甘ったるい
心地のふたりは、静かな沼の縁にて夕食用の豚汁を作った。男が肉や野菜を切り、中川がぐるぐる掻き混ぜた。その真っ盛り、
男は中川の肩を優しく抱き、中川は愛撫するように男の瞳の奥を眺めた。そんなこんなでついに出来上がったそれを皿ヘ
サーヴする折、どこまでも夢見ごこちの中川は「愛情っていう隠し昧も入れちやうぞ」などと言って鍋の中を覗き込んだ刹那、
ぬらりぬらりと底から上がってくる脂っこい湯気に鼻腔をやられ、奥の奥からふっと飛散した青っ洟を勢いのままに垂らして、
粘つくそれらを汁の中へことごとく落としてしまった。傍にいた男は無論、「捨てちやおうぜ」と言った。勿論、中川もこれは
空前絶後のタイミングで起こった悲惨な出来事以外の何ものでもないと思った。しかし、俄に「えへっ、図らずも愛情以外の
ものが入っちやいました」などと、この危機的状況を笑顔と愛嬌で誤魔化すなんて芸当を到底繰り出すこともできず、
訝る男の、呆れ返った視線を感じながら、中川は粘っこい鼻水の入った豚汁をすべて、一滴も残すことなく甘んじて啜った。
その夜、ふたりは当初の予定どおり、冷めたテントの中で、股間同士を小刻みに擦り合わせる程度のしょっぱいセックスはした。
けれど次の日の朝、白桃のような優しい色昧をした陽光が、沼のよどみの水面に薄らと浮かび始めた途端、ふたりが疎遠に
なってしまったのは言うまでもない。
まだある。それはデヴィッド・ハミルトンの映画を町の会館で見た帰りだった。可憐なバレリーナたちが次から次へとスクリーン上に
現れる、幻のように美しいソフトフォーカス・フィルムの雰囲気を引きずったまま、中川が軽やかに漫歩していたら、後ろにいた
見知らぬ誰かに「あのエラそうな女、今に後ろへひっくり返るぜ」と小声で言われた。がちんと頭を相手に打ち付けるくらいに
反り返って、その中傷じみた言葉を真正面から受け合うこともできた。けれど、中川は今バレリーナなのである。太くて短い手足と、
ぱんぱんに膨らんだ胴体しか持たない、そんな己の醜い姿とはまったく似ても似つかないほど美しいバレリーナの姿を、中川は
今模しているのである。まさに滑稽だった。後ろを歩く見知らぬ誰かは、それがどんなに愉快なことかわかっている。身近に
娯楽がないのなら、思う存分見物するがいい。こんな奇観はなかなかないだろうしね。けれど、本当にそれで良いのか。構わない
のか。見知らぬ誰かにあなどられて侮しくはないのか。そんなわけがない。末代までの恥か。それほどでもない。そうひとりっきりで
問答し始めると、中川はどうにもこうにも理性的ではいられなくなった。ついには、どたどたと大きな足音を立てて歩きつつ、
模範どおりに形成していた両肩を上方へ怒らせ、ぴんと張っていた背中をどこまでも緩め、太鼓腹を起点に身体全体を小さく
縮こめてしまった。その姿はまさに、不器用という言葉を形象化した奇妙さだった。そして例によって例のごとく、そんな不格好
極まりない猫背を今日に至っても改められずにいる。
さらに煩悶しよう。もうこうなれば不器用も板についたものである。けれど、中川はそのような己の性分に観念しているわけでは
ない。素直で正直でかわいらしくいることが、生きやすい方法なのだということを十分に承知している。が、次回は是非ともそうして
みようと決心しておきながら、決してそのように振る舞えない。いったん動作し始めると、いつでもどこでもそれが後からついて来て、
片意地を張るしかなくなってしまう。中川はそれと絶交しようと駆け足するのに、その丸まった猫背にごろりと乗っかって、どうやら
楽々墓場までやって来るつもりらしい。前方しか見ずにいる中川は、その先のどん詰まりに気がつかない。そして、気がついた
頃にはもう悪態ばかりついている。不機嫌でも何でもないのに、不機嫌そうにそっぽを向いて、ふくれっ面ばかりしている。
そんな間抜けがいまだにいるのかと思われるかもしれない。そんな間抜けはとっくに自然が大蛇を振るって間引いたはずである
と思われるかもしれない。けれど現に中川は今もこうやっている。そして子供の頃からずっとそのままにいる。さらに、初秋の
涼やかな朝日の当たる煎餅布団の中で、いろいろな熱気を帯び始めた己の箇所を、いつものようにあれやこれやと弄くり回し
つつ、先走ろうとする煩悩を宥めながら促しながら、何にも詰まっていない頭の中で延々とあれやこれや煩悶している中川は、
思春期をとうに過ぎた立派な肉体的にも、三大義務を為すべき世俗的な立場においてすっかり大人になってしまった今も、相も
変わらずそうだった。むしろ、世間などというものを経験すればするほど、ますます不器用になってきているのかもしれない。
「なああ」
携帯から、ごもごもとこもった音が絶えず渦を巻いて聞こえてくる。それは波打ち際に湧く泡のように小円を描きつつ、浮かんでは
消え、消えては浮かび、繰り返し響いて
「そうやってだんまりを決め込んでも許されんのは、きょうび左翼ぐらいだぜ」
(…この続きは本書にてどうぞ)
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