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ベーコン
ベーコン

著者:井上 荒野
■ISBNコード: 978-4-08-774891-8
■判型/総ページ数: 四六判ハード/208ページ
■発売年月日: 2007年10月26日
   ほうとう

 安海はいつも日曜日に来た。
 日曜日の午後一時過ぎ。温子は、食事の仕度をしながら待っていた。まず、錆びついた小さな門を開けるギイッという音が聞こえ、ゆっくり五つ数えると、玄関の呼び鈴が一度だけ鳴る。
「やあ。しばらく」
 温子の顔を見ると、そう言って安海は微笑む。会いたかったわ、と温子は答えて、二人は笑う。実際は先週職場でずっと顔を合わせていたようなときでも、その挨拶は決まりごとなのだった。
 ちゃぶ台のある六畳間に入ると、安海は持ってきたバイオリンを、床の間に置いた。安海はかつて、趣味の管弦楽サークルに入っていた。メンバーが揃わなかったり、人間関係が厄介だったりという理由で、とっくにやめてしまっていたが、安海の妻には、まだサークルを続けているということになっている。毎週日曜日に安海が家を出てくるための、それが理由になるのだった。
 二人はまず、昼食をとる。温子はいつも、簡単でおいしいものを作った。正しくは、おいしいけれど、簡単なもの、というべきか。温子は料理が好きで、得意でもあったが、そういうことをあまり押しつけたくなかった。パスタにサラダ、和食なら焼き魚に味噌汁に、お浸しくらい。安海と食事する時間が温子は好きだったが、惜しくもあった。「管弦楽サークル」は、一日中練習するわけではないから。
 それで、食事が済むと、温子はそそくさと食器を片付けた。その間に、安海が隣の部屋に布団を敷いた。最初から敷いておくのではなく、安海が敷く、というのも、いつの間にかできあがった約束事だ。「男の嗜みだよ」と安海は言う。温子は、台所からできるだけ急いで戻ってきて、布団を敷く安海を眺めた。安海は、この家に来て、子供の頃に培った「布団敷きの才能」がよみがえったのだそうだ。まるで図面でも引くように、シーツの上下をぴったり同じ幅にしてぴしっ、ぴしっ、と折り込んでいく手つきを見て温子はくすくす笑う。すると安海が「笑うなよ」と言いながら、温子の手を引っぱった。
 安海が帰る前に、ニ人は再びちゃぶ台の部屋に戻って、お茶を飲んだ。寒くない季節なら窓を開け、足を伸ばして、細長い庭を眺めながら。
 都下には稀な雑木林の裾にその家はあって、庭の向こうには四季折々の木々の姿が望めた。春には山桜やこぶしが、秋には紅葉が美しかった。「いいなあ、ここは」と安海は毎回しみじみと言った。「緑はいいなあ」と言い、「静かでいいなあ」と言い、「雨はいいなあ」と言うときもあった。安海が日曜日ごとに来るようになってそろそろ三年だった。
 しばらく二人でそうしていると、家の脇の遊歩道を、茶色と白のまだらの、長い毛の犬を連れたおばあさんが通った。「ああ、来ちゃったね」と安海は言う。そして立ち上がって、身仕舞いし、バイオリンを抱えた。
 その家に温子は生まれたときから住んでいた。
 温子が中学生のときに、母親が病気で亡くなり、五年前、父親は再婚して家を出ていった。
 父親が新しい妻と暮らしている都心のマンションを、月に一度か二度、温子は訪ねる。二人との関係は良好だ。義母は、ファッション雑誌などに度々取り上げられるセレクトショップのオーナーで、お洒落でとんでもなく忙しい人で、交通の便がいい自分のマンションから引越したがらなかったのもそのためだった。版画家である父親は、客用寝室の一つをアトリエに改装して、仕事をしている。
「義母は努力の人なの」
 と、温子は安海に話した。
「料理はからきしだったんだけど、父のために習ったの。週に一度懐石料理の教室に通って、月に一度は、イタリア人のシェフに個人教授してもらってるのよ」
「で、腕前は上がったの?」
「ええ。もちろん。義母は完全主義者だから。ただね……」
 温子は思い出し笑いをした。
「今のところ、レパートリーは懐石料理とイタリアンだけなのね」
「つまり?」
「そう。つまり、父は毎日、懐石料理とイタリア料理を食べてるらしいの。かわりばんこに……」
 あるとき、義母がいないところで、そのことを打ち明けた父親の表情、それに、義母が作る隙のないコースメニューを思い出して、温子はまた笑い、その顔を見て、安海も笑った。
「それは、ちょっときびしいかもしれないなあ」
「父の目下の悲願は、死ぬまでにもう一度、ほうとうを食べることなの」
「ほうとう?」
「知らない? 小麦粉を練って、長く伸ばしながら茹でて……野菜や豚肉と一緒に、おつゆにするの」
「ああ、山梨とかあっちのほうの、郷土料理にあるね」
「母は九州の人だったんだけど、どこかで覚えたらしくて、よく作ってくれたわ。お昼ご飯とかに。ほうとうに、焼きおにぎりって決まってるの。おつゆを味噌味にするか醤油味にするかでよくもめてた。へんな家族でしょう?」
「食い道楽なんだね」
 安海はそう言い、それからふいに温子をじっと見つめたので、温子ほどきどきした。
「あなたは、作れるの?」
「ほうとう? ええ、上手よ。でも……」
「うん、わかるよ。あなたが作ったら、お義母さんは傷つくかもしれないからね」
「義母がいつか郷土料理を習いにいってくれることを願うわ」
「僕も食べたいな」
「そう?」
 それじゃ、今度作るわね、と温子は言った。そのまま何となく安海の顔を眺めていると、安海はちょっと戸惑ったような顔になり、手を伸ばして温子の頬に触れたりした。

 ほうとうの話をしたのは二人が付き合いはじめて最初の冬で、でも結局まだ一度も作っていなかった。やっぱり、何か押しつけがましい感じがしたのだ――とくに、ほうとうの思い出を話したあとでは。
 それで、その日も、温子か昼食に作ったのは親子丼だった。安海が旨い旨いと連呼しながら食べるので、温子は自分のぶんも分けてやった。それから、いつものように隣の部屋で愛し合い、ちゃぶ台の部屋に戻ってきた。
「どうする? 冷たいお茶にしましょうか」
「うん。そうしよう。汗だくだ」
 五月の終わりだったが、一日中よく日が差していた。そのうえいつにない運動量だったのだった。温子は今日、長い髪をアップにまとめていた。アイスティーを淹れながら、そのせいかしらと考えた。もちろん今は髪はほどけて、安海ほどではないけれど、薄く汗ばんだ首筋にはりついている。
 アイスティーを飲み終わり、グラスの氷が溶けた頃、おばあさんと犬がやってきた。おばあさんも、今日は白い半袖を着ていた。よく続くなあ、と安海が言った。 (…この続きは本書にてどうぞ)

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