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寄席の人たち
現代寄席人物列伝
ヨセノヒトタチ

著者:秋山 真志
■ISBNコード: 978-4-420-31016-1
■判型/総ページ数: 四六判ハード/320ページ
■発売年月日: 2007年4月26日
寄席の空間を演出する席亭は隠れた名プロデューサー
北村幾夫 末廣亭席亭


人間国宝の耳を引っ張って遊んだ少年時代
 現在、都内に定席と呼ばれる一年三百六十三日(休みは年末の二日だけのところが多い)、興行している寄席は、 上野・鈴本演芸場、浅草演芸ホール、池袋演芸場、新宿・末廣亭の四軒しかない。ほかの寄席がビル化していくなかで、 江戸時代の風情をいまに伝えているのは、末廣亭だけ。新宿三丁目の飲み屋街の一角に、ここだけがタイムスリップして きたようだ。幟がはためき、軒には招き行灯が吊るされ、壁には寄席文字で書かれた芸入たちの木札がびっしり並び、入り 口付近には昼、夜のトリを務める噺家の名前を書いた大看板……ここには至るところに郷愁を誘う装置が散りばめられている。 通称「寄席の歌舞伎座」。
 現存する寄席で一番歴史の古いのは鈴本だが、末廣亭が創業したのは終戦直後のこと。昭和二十一年(一九四六)三月、 建築業を営んでいた北村銀太郎が、戦前、落語・色物の定席だった地所を買い取り、いまの末廣亭を開業した。銀太郎は 昔、四谷で「六三亭」という寄席を経営していたこともあり、芸人の世界に通じ、「いい寄席のイメージ」を持っていた。当時の 落語界の重鎮、五代目柳亭左楽の強い勧めもあった。「万が一、寄席で失敗しても、場所がいいから食いっぱぐれがない」。 銀太郎は五代目古今亭志ん生と同い年の明治二十三年(一八九〇)生まれ、明治、大正、昭和の三代を生き、九十歳を 過ぎても現役で、芸人たちからは「大旦那」と慕われた名物席亭だった。
 いまの末廣亭の席亭は三代目、銀太郎の孫にあたる北村幾夫である。昭和三十年前後、北村家は末廣亭の近くにあり、 北村少年にとって寄席は格好の遊び場だった。
「寄席での原風景? 末廣亭の二階で走り回っていて、母親が目を吊り上げて怒りに来たっていうことかな。当然、音が下の 客席に響くよね。『何か二階がうるさいな……』、『幾ちゃんが走り回ってます』(笑)。みんなからちやほやされて……芸人さん も、席亭のお孫さん、ていうと何かくれたりするしね」
 母親から楽屋には行ってはいけないといわれていたものの、しょっちゅう出入りしていた。無論、楽屋は子供には場違いな ところ。席亭の孫だからしょうがない、とみんな大目にみていたが、先代の柳家小さんだけは違った。「ダメだぞ、坊主!」と 叱られた。
「小さん師匠は、子供に叱るべきことはきっちり叱るけれども、一方では『子供だからおとなしくしていないのは当たり前だ』って いって、一緒に遊んでくれたのよ。とても誠実な人だった。当時はそこらに原っぱがたくさんあったから、肩車をして一区画 走って……師匠の右の耳を引っ張ると右に、左を引っ張ると左に曲がってくれる。また、母親がそれを見つけて目を吊り上げて 『幾夫、降りなさい!』(笑)。いま考えれば、のちの人間国宝に向かってなんて怖ろしいことをしたもんだと思うけど、こっちは 小学生だから、寄席に出ている芸人が、エライ師匠かどうかなんて考えもしなかった。その頃は、文楽、志ん生、可楽、圓生 ……大御所がズラリといたけど、落語はわからないし、つまらなかった。子供には聞き取れないんだもの。たぶん何をいって いるかわからないから聞き取れなかったと思うな。文楽師匠は時々甲高い声を出すおじいさんだな、ぐらいの認識しかなかった し……でも、色物は好きだったね。シヤンバロー、牧野周一、柳家三亀松、手品、曲芸、いろいろなおもしろい色物芸人が いた。それを桟敷で見ていて、芸人さんのやっていることを真似するわけ。そうすると、母親がまたスゴイ形相で怒りに来て ……高座の芸人さんはやりにくかったと思うね。当時の番組表を見ても、色物は昔のほうがずっと多かった。落語を聞かせる というよりも、いかに寄席演芸を楽しませるかというプログラムを組んでいたかがよくわかる。裏を返せば、その頃は噺家の 絶対数が少なかったってこともいえるけどね」
 終戦後しばらくは、寄席は悪所といわれていた。貴顕紳士、真っ当な人間が入るようなところではない、そんなイメージが あったらしい。北村の子供時分は戦後の混乱が落ち着き、悪所のイメージも払拭、ラジオ放送で落語が認知されはじめ、 寄席が見直されつつある時代だった。
「子供心に寄席は不思議な場所だと思っていた。世の中は復興したとはいえまだ貧しくて、みんな必死で働いているのに、 寄席には昼でも夜でもお客さんがいて、くだらないことに笑っている。最初はただで入れていると思っていた。そのうちよく 見ると切符を売っているから、あ、お金取ってるんだなって……。あの頃といまとでは、お客さんの笑いの質が全然違っていた。 それまで抑圧され、娯楽に飢えていたから、笑いたくて笑いたくてしょうがない。笑いを待っていた。三平さんの芸は、そうした お客さんに笑うきっかけを与える芸だったと思う。普通はつくったものをいくらで売って……というのが商売の基本でしょ。それ をお金を取って笑わせて帰すなんて本当に不思議な仕事だと思ったな」
 テレビがお茶の間に普及するようになると、林家三平、三遊亭歌奴といった売れっ子があらわれ、多くの演芸番組ができた。 若手では立川談志、古今亭志ん朝、柳家小三治、三遊亭圓楽といった噺家たちが台頭。昭和三十年代半ばが戦後の最初の 落語ブームで、寄席はいつも鈴なりだった。
 北村が落語のおもしろさに目覚めたのは、先代の三遊亭金馬の「居酒屋』をラジオで聴いたときのこと。初めて落語がすっと 自分の中に入ってきた。柳亭痴楽の『綴り方教室』、歌奴の『授業中』といった噺はラジオですぐに覚え、次の日には学校で 披露していた。授業中に「北村やってくれ」といわれて落語を演ったこともあった。北村には、何かみんなの前でおもしろいこと をやりたい、本気になって笑いを取ろうという先天的な性分があり、それはいまだに抜けていないという。そして、とにかくじっと していられない、落ち着きのない子供だった。先生に呼ばれると、最後列から前の子の机の上をのしのしと歩いて行き、 「はい、なんですか」と答えてみたり……先生には叱られてばかりいたが、子供の中ではリーダー格だった。
 勉強はしなかったが成績は悪くはなかった。夏休みの宿題も苦労したことはない。七月中に、想像力で絵日記すら終わらせて しまっていた。八月末になると公園にだれもいなくなってしまうので、近所の友達の家に遊びに行って宿題を写させてあげて、 自分はそこでおやつを食べていた。
「子供時代の夢? そうねえ、自分で早くお金を稼ぎたいと思っていたね。とにかく小遣いをもらうとき、無駄遣いをするなよ、 っていわれるのがとってもイヤだった。だから、大人になって自分の子供や親戚の子供に小遣いをあげるときは、思いっきり 無駄遣いしなよ、っていって渡してるんだ」 (…この続きは本書にてどうぞ)

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